昭和四十七年三月七日 朝の御理解


X御神訓 「生きたくば 神徳を積みて長生きをせよ」


 私はこの教えは、信心しとれば無病息災、当然長生きをするのだと。信仰して行ければ、御神徳を頂ければ無病息災のおかげを頂けられるというような意味に頂いておりました。誰でも早死にしたいという者はありません、長生きをしたい、生きたいのです。
 ですから、信心でもさせて頂いて長生きせねばということでございました。信心しとってもやっぱり早死にする。二代金光様、四神様なんか、あのような大徳を頂きながら、御年四十才で亡くなられたのですからね。ですから今日は、そういうのではないと思うのです。
 生きたくばというのは、もうそこに瀕死の重傷のというようなね、もう病気でもしておると。それが助かりたいなら、生きたいならば、この素晴らしいチャンスをチャンスとして、御神徳を受けて長生きをせよということです。
 それで、病気を求めてするものではありませんけれども、まあ病気になりましたり、病気の事ではありませんけど、様々の難儀に遭うったり、直面する。だからその難儀から只救え、助けて頂くだけということはね、神徳を積むということにはならん。それは神徳を頂くことじゃない。難儀を通り抜ければ神徳を受けるということではない。その難儀の受け方が徳になるのです。
 ですから、どうでも、いつどういう場合、まあ難儀ということに直面した場合、本当にそれは御徳に出来れる、受けれる姿勢というものが、本気で出来ておらねばという、信仰するということはそれなのです。 それでいよいよ神様の心が深くわからせてもらわねばならんということになる。
 生きたくばね、言うなら、助かりたいならば。只そこから助けて下さい、助けて下さいでなくて、その機会、そのチャンスを逃がさずに、いわゆる御徳を受けれることに切り替えていけれることの信心、言うなら、災い転じて幸せということになる。その災い、その難儀、その病気、私は今日はそういう風にここは頂く。私は思うのです。
 只きついきつい、只苦しい苦しいと。お神様助けて下さい、楽にして下さい、これではだから馬鹿らしい。楽にもして下さるだろう、助けても下さるかもしれん。それはそこで
助かったというだけのこと、だからそういう助かりと同時に、御神徳を積まにゃいかん。 福岡の三代吉木辰次郎先生がお若い時に、お若い時というか、もう四十代位の時でしょう、大変な難儀をなさった。大病をなさった。医者も、もう難しいという程にひどい御病気であった。
 その時に床の中で感ぜられた、そして感ずるところあって自分の持っておるタンスの中にある着物という、お金になる程しの着物を全部お金にされた。自分の預金通帳にある、預金通帳にあるお金は全部それを引き出された。そしてそれを親教会と小倉の教会と御本部にお供えなさった。
 そういうおかげを頂かれた。それを境にさしもの難病がおかげを受けなさったと、先生はよくその話をなさった。これなどはこれにピッタリ来ると思うですね。
 「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」神徳を積んである、普通で出来ない信心をして、もう死ぬか生きるかの病気した時にはじめて、欲も得もないという、いわゆる信心させて頂くのも、土台になる。いわゆる求真、求めて止まない信心がそういう時に出来る。身に徳を受けられた。それからまた何十年間あのようなおかげを受けられたのです。
 私はこの御理解を今日はそういう風に頂く、感じるのです。今までは信心しておれば無病息災のおかげを頂く。そうじゃない、「生きたくば」というところ、もう死ぬかもわからんという時、「お前はもう医者もさじを投げたぞ、それでも生きたいか」と言う。「生きたいならば、さあこれを境に今迄も出来なかった、今まで改めようとして改められなかったことを神様にお願いする。これがなからにゃ、これを改めらにゃと思うておったのを、これで改まられる、もう死んだ気で改める。我情我欲ばかり言うて、こういう時に一つ本気で我情を捨てよ、我欲をお供えせよ。そこで一つ徳を受ける。いわゆる御徳を積む、御徳を積むことに依って、今度は又新たなおかげの展開となってくる。
 おかげで今度の大病はおかげでおかげを頂きました。言うたってそれだけでしょうが、苦しい思いだけでしょうが。そこに難儀を感ずる時、その難儀から本当に開放されたいなら、そういう難儀な時にこそ徳を積むのだ、日頃出来ないことをするのだ、日頃これをどうでもと思うておることを。勇気を以てそれを断行する、そういうことによって一徳受ける、長生き。それから又新たな運命の切り替えということ、というものが出来ます。これは言うならば運命の切り替えとでも申しましょうかね、出来る程しの御教えだと思う。
 一生貧乏せんならん運命にある人、もうこの病気で亡くなってしまわなければならない星の下にある人、そういう人が、そういう時に、神徳を積むことによって貧乏の星の下にあった人が、金満家になるような運命の切り替えが出来るわけです。
 徳を積むことを、早死にするはずの人が運命の切り替えによって、又新たな命を頂くことが出来る。「神徳を積みて長生きをせよ」ということは、そういう時でなからなければ、仲々徳を積むということは出来ないのだなあということ。
 あれは誰かの有名なお話がありますね。大変な易学の大家から、あるお寺さんで、「あなたは早死にもあと幾日もない命の相というものが、人相に表れている」と言われた。そ
のお坊さんが言われることはもう的確である、百発百中である。よう当たるわけである。 それでその青年がぐれだした。どうせ半年なら半年、一年なら一年しか生きられん命だから、相当の財産を持っておったのですけれども、もうそれを湯水のように使う、どうせこの世を太う短こう生きようというわけですね。
 その日もやっぱり遊びに行って、夜中に帰って来よったところが、橋の上から一人の男が身投げをしようとしておる。それで止めて、「お前はどういうわけで死ぬるかと」尋ねたところが、「こういう訳で金をなくした。とにかく言い訳がないから死んで申し訳するより外にない」とこういうわけである。
 「いくらか」と、それで「これ幾ら」という。丁度その大金を、いつも大金を持って歩いとるわけですね。飲んでまわったり、遊んでまわったりしているのですから。だから自分が持っとったって仕方がない、「そんなら、俺がその金を出してやろう」と言うて助けたというのです。
 ところが半年たっても、一年たっても自分が死なん訳です。それから何年後に、又そのお寺さんに、お坊さんがみえた。それで「この糞坊主が俺に嘘を言うた」と言うて詰め寄ったところが、「まあ一寸待ちなさい」と。「自分が今まで見てからね、間違ったことはなかったけれども、どういうことであろうか」とその人相をしげしげと見てから言われたと、「これはね運命の切り替えが出来た」と言われたと。
 「例えて言うならば、あんたがね、人の無い命を助けるといったようなことをしはしなかったか」と、「そう言われれば、何時何時こういうことがあった」と、「それ見なさい。それであなたの運命は新に又、展開してきた。良い意味に展開して来たんだ」と言われたという話があるが、これなんかは只お説教話でなくて私は本当だと思うです。
 私は今日の御理解は、そういう風に頂いて頂きたいと思いますね。この御神訓は、「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」と。信心をしよれば無病息災、長生きするようなものでなくて、一徳積ませて頂くようなチャンスを頂いた時、お互いが、例えば難儀な問題、これはまあ言うならば、私の信心を聞いてくださるが一番わかる。
 そういう難儀に直面した時にです、それを善いことに受けて行く。何と申しますかね、点心とでも申しましょうか、転身とでも申しましょうか、変身の術とでも申しますかね。それを善いことに受け応えて行くという行き方。そしてそういう時にです、普通で出来ない信心をする。そういう時に普通で出来ない改まりをさしてもらう。無い命なんだもの、だからもう死んだ気持ちですれば、どんな改まられんこともない。
 死んで行かなければならんのだもの、財産持っとって何になるか。思い切ってお供えでもさせて頂いて、それが神様の心に通うて、また新たな命のつき【】を頂くというような、それが徳を積むということ。
 皆さん本当にね、そういうところを一つ自分の身の上に降りかかって来た場合にです。それを、ああ僕はあの時に一徳を積んだのだなあと思われる程しのね、おかげを頂かねばいけない。

 二、三日こうして風邪でこうしてブラブラしてますから、それはやはり苦しくて体がきつくて、そういう時にもう本当に、よい意味でなくて、欲も得もないようなことになる。もう神様も言えんようになる、きついときには。だから容易いことではないけれども、そこんところをです、本気で性根の中に叩き込ませて頂いて、それを真実本当だと信じさせて頂いておりますと、それが出来るかと、不思議です、やっぱりそれをそうだと信じとかなければいけない。
 吉木先生の場合でも、それまでにそういうことはどれ程聞いて来られたか、自分も問われたかわからないくらいです、欲得を放すということは。けれども自分が生きるか死ぬかということになってはじめて出来られるという感じ。そして初めて徳を積まれた。知っておかなければ、聞いておかねば出来ん。
 私は本当に合楽で御理解頂かれる方達はね、本気になって私の言うことをですね、頂く気にならなければ、信心する気にならなければ。「先生は、あげん言いよんなさるけれども、そういう訳には行かん」口では言わんでん、そういう受け方をしてるからいつまでたっても本当のおかげにならんのです。
 昨日ね、病室に小野先生親子が御礼に出て来てから、豪治君が息子です。今度九大の試験受けました。三日間、二日目か、例のこの頃から話しました物理ですかね、物理の試験であった。ここへ物理の本と言えばこんなに厚い、こんな大きな本なんです。もう小さい、もうこげなとは本当に一冊通り読むだけでも大変なのに、これを勉強せんならんならたいしたものだなあと思いましたね。この本の中の問題が四題出るというのです。
 それでそのかわり豪治君は一生懸命でしたよ。他の勉強も一生懸命するけども、この勉強を一生懸命しようとして出来ることじゃないと。「親先生済みませんけれども、この中から四問だけ出るところを教えて下さい」というわけ。だから私が、「ああそうな」と言うてから、そこに紙を五枚挟んでやった。「その挟んでおるところを勉強しなさい」と。
 そしたら昨日親父と一緒に来とりましたが、まず豪治君が「親先生、親先生から教えて頂いたところが問題出ました」これは恐れ入ったということですけれども。本当言ったら日々そんな恐れ入ったことばっかりの話を頂きよるとですよ。何故って、今日だってここは話そうなどと言ったわけではありません。なら私が病気しとるけん、ここば話ししようと思ったわけではない。いわゆる、豪治君がそれを頂くと同じように、御神前で頂いたこと、そしてここで頂かせて頂いて、言うなら、ここに紙を挟んで頂くようなことで頂くわけですから、本当言うたら大変なことなのですよ。それは本当にビックリしますよ、あの本ば見たら。その中から、神様がここと、ここと、ここを勉強しろと。そこから問題が出た。
 だから合楽というところは大変なところだなと思うです、本当。いや大変なことを、神様が此処にはもくろんでおられるなと言うことです。いわゆる「和賀心を創る」と言う程しの大きな運動の展開の基をね、ここにおいておられるということが、合点が行くです。
 そのためにはここに御神縁を頂け、縁を頂いた現在の御信者さん、信奉者の方達がです、そこをそうと信じて、そこをそう行の上に表して、「徳を積んで長生きをせよ」でなくて、「徳を積んで神様に喜んで頂ける本当の御用をさして貰おう」ということになるのです。ならねば相済まん。
 日々こういう御理解頂いとって、只今日の御理解はこういうことであったということではならない。もう本当に深い、深遠なまでの神様の思召しがあってのことなのです。そこを思わせて頂いたら、も少し御教えに本気で取り組ませて頂く姿勢も、また出来ようかと思うですね。
どうぞ。